グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



TOP >  会社情報 >  創業者ストーリー

創業者ストーリー


関根建男の "領収書"(Founder's Story)


全国の同級生諸君、おやすみなさい

株式会社東京企画/CM総合研究所の創業者・関根建男(セキネタツオ)は、1939年に群馬県群馬町(現在は高崎市)に生まれた。 父は代々農業を営む名家の出で、教員をするかたわら雅号を「青雲」と名乗る書家でもあった。 母は九州熊本の出身で、明治大正時代の評論・文芸で活躍した徳富蘇峰・蘆花兄弟を大伯父にもつ女性。 姉四人と兄一人を持つ末っ子で甘えて育った建男少年だが、10歳の時に最愛の母が他界してしまう。

母亡き後、関根家には田畑の世話をする人がいなくなり、まだ小学生だった建男少年が面倒をみることになった。 田植えや稲刈りなど近隣のベテラン農家に手伝ってもらう農作業では大人に混じって働き作業後の酒宴も一緒に過ごした。 少年ながら人を束ねるプロデューサーのような役割をこなしながら建男少年は人づきあいを学んだ。

高校は群馬の名門・高崎高等学校に学んだ。教室でおとなしく授業を聞くのは苦手だったが、教養を高めることには熱心だった。 ここ一番必要なときには深夜になっても「全国の同級生諸君、おやすみなさい」と声を出してから、もうひと頑張り、机に向かったものだった。 早稲田大学教育学部に進学したあとは学生寮に暮らし、この頃の友人たちのネットワークはその後の事業拡大に役立っていく。

早稲田大学には7年在籍し中退するのだが、学生時代から雑誌記者のアシスタントとして記事を書くようになっていた。 大学中退が決まる頃、取材で出入りをしていた日産自動車から宣伝部のスタッフとして働かないかと声がかかった。 そろそろ腰を落ち着けて仕事に没頭したかった25歳の関根は、日産自動車への入社を決めた。

"隣のクルマが小さく見えま〜す"

1965年、25歳の春に日産自動車に入社し宣伝部制作室に配属された。高度経済成長のまっただなか。 東名高速道路、中央自動車道の建設が急ピッチで進み、誰もが自家用車に憧れていたモータリゼーションの時代。 庶民にとってクルマはまだ高嶺の花だったが、1966年に日産はサラリーマンでも頑張れば手の届きそうな1000ccのコンパクトカーを発表し、その車名を一般公募する。 そのキャンペーンを関根は担当した。採用されたらその車がもらえるとあって応募総数は記録的な800万通に上った。 日本中が注目する中、このクルマは、太陽が降り注いで明るいイメージで親しみやすいということで「サニー」と名付けられた。

サニーは好調に売れたが間もなくライバルのトヨタ・カローラが「プラス100ccの余裕」というキャッチコピーで新型カローラを発売する。 サニーとカローラは良きライバルとして庶民のマイカーブームを推し進めた。
1970年、日産はさらに上をいく1200ccのサニーを発売する。関根が担当したその発売告知CMは、 小憎らしいガキ大将風の男の子が「となりのクルマが小さく見えま~す」と言いながら隣家の庭先に目をやるというものだった。

このCM、日本初の「比較広告」と騒がれ、小学校の教室で、通勤電車の中で「となりの○○が小さく見えま~す」と真似をする子供やサラリーマンが大勢いた。 その流行に、子供に不必要なライバル心を植え付ける、虚栄心が良いことのように語られているとクレームが日産自動車に殺到し、関根は役員会に呼ばれて叱責を受ける。
「でも『となりの○○が小さく見えま~す』は流行語になっている。ということは、CMは確実に大ヒットです」 そう説明しても、役員たちは「それは君の主観だろう、成功というなら証拠を見せろ」と言われてしまう。
「だいたい宣伝部はお金を使うばかりで成果が見えない。領収書を持ってこい」と宣伝担当役員から言われ、その言葉は関根の人生に大きな影響を与える。 逆風のなかでCMの効果を客観的に公正に評価してくれるデータがあったなら、と関根建男はつくづく思った。

世界で最も通用する日本語はTOKYO

35歳で日産自動車を退職した関根は、退職金を元手に世界を見て歩くことにした。 当時の五木寛之のベストセラー「青年は荒野をめざす」に倣って、横浜からロシアのナホトカへ船で渡りシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断してヨーロッパを旅して回った。 ユースホステルや安いアパートを借りて自炊しながらの旅。行く先々で世界の広さと文化の違いを肌で感じた。

旅をしながら帰国後に始めるビジネスを固めていく。まず「世界を相手に仕事をする」ことを決め、会社名には「TOKYO」を使うことも旅の途中で決めた。 世界のどこに行っても必ず通用する日本語、それが「TOKYO」。日本(ニッポン)という国名は、ジャパン、ジャポネ、ハポンなどなど海外ではさまざまに変わってしまう。 「TOKYO」はどこにいってもトーキョーと呼ばれ、誰でも知っている。最もインターナショナルな日本語である「TOKYO」を会社名に使う。 主に広告や出版物の企画制作をすることも決めていたので、会社名は「株式会社東京企画」となった。

1976年1月、株式会社東京企画は創業した。友人の会社に机ひとつ、電話1本を設置させてもらっての船出だった。 広告企画のコンサルティングやPR誌の編集など小規模な仕事から徐々に仕事の幅を広げ、スタッフを増やして銀座の片隅にオフィスを移転した東京企画は、 関根がヨーロッパ旅行中から温めてきた出版企画に着手する。当時の旅行ガイドは名所旧跡の解説など読み物として優れていたが、旅行者が持ち歩くには不便なものだった。 関根の企画は、ジーパンの尻ポケットに収まるB6版サイズ。地図を多用して全ページカラー刷り。従来のガイドブックの「国」別ではなく 「都市」別に構成され「海外シティガイド」の名称で企画された(昭文社発行)。

いろいろの情報を早く、するどく、おもしろく!

それまでになかった新しい視点で広告や出版を企画することは、関根の最も得意とするところで、その後も次々にヒット企画が続いた。 当時の東京企画の名刺には「いろいろの情報を早く、するどく、おもしろく!」というスローガンが踊っていた。

なかでも1981年のビッグプロジェクト『日本の名旅館』は注目を集めた。 JTB出版局から発行され、その後も長く続くことになる「MOOK一流シリーズ」の第一弾。老舗旅館でゆっくりくつろぐ、 という本格志向の旅を求めている層が確実に増えていると感じた関根の企画で『日本の名旅館』は編集された。 1冊2000円もするMOOK誌だったが3年ほどの間に通算100万部のベストセラーとなった。 このシリーズでは宮内庁に通って当時の入江相政侍従長の知己を得て出版にこぎつけた『皇室御用達』など、それまで出版されたことのない企画を次々実現させた。

広告企画ではTOTOの仕事に注力した。設備メーカーのTOTOが増改築ブームに打ち出した「ウオッシュレット」「シャンプードレッサー」など 新機軸の商品の広告を仲畑貴志氏とともにプロデュースして、「お尻だって洗ってほしい」などの広告をヒットさせた。
TOTOの仕事では、当時の山田勝次社長の海外視察旅行に何度も同行した。ヨーロッパ視察旅行のある夜、関根は山田社長に、暖めてきた新ビジネスについて相談する。 CM総合研究所構想だ。ようやくビデオ機器やPCが普及し始めたので、日産時代からの宿題「CMの領収書」に向き合うときが来たと感じていたのだ。 最初の構想は、ヒットしているCMだけを集めてデータベース化することだった。 ところが山田社長から「関根君、やるんなら全部やらなきゃだめだよ」と忠告を受ける。当時の会社の状況やテクノロジーの現状を考えれば「おいしいところだけ集めて」 という発想は当然だったが、さすがに成長を続ける大企業トップの視点は的確だった。この忠告がなければ、今のCM総合研究所は存在しなかったかもしれない。 関根はすべてのCMを網羅するデータバンクを立ち上げる覚悟を異国の空の下で固めた。

分けると解る[超・秀・優・良・可...]

CM総合研究所の事業は1986年にスタートした。東京キー局から発信されるCMの内容をデータベースに登録し、業界内の研究のために閲覧できるサービスから始まり、毎月新たに誕生する新作CMを20の産業分野にリスト化したデータを月刊誌「CM INDEX」に掲載して発表した(1986年4月創刊)。

前月誕生の新作を翌月5日発行の雑誌で届けるという、インターネットのない時代としては画期的なスピードで届けるビジネスだった。創刊号は、本当にINDEX(リスト)のみで解説なし、両面印刷でなく片面のみで47ページというシンプルなものだった。

翌1987年には「CM好感度調査」を開始する。当時、都内の専門学校の広報科の授業を引き受けていたことから、学生たちとその家族・友人をモニターとして最初は300人の小規模で始まった。CM好感度調査は、やがて年齢・性別・地域の分布を整備しながら500人へ、さらには1000人の体制を整え1989年1月から、正式にCM好感度結果の情報提供サービスを開始した。

普通に生活するなかで記憶に残って好きだと思ったCMを自己記述で記入し、好きな理由と、その商品・サービスを買いたいと思ったか購買意向を訊くシンプルな調査ながら、対象となるCMは毎月4000作品を越える。4000作品中の300位だったら「上位10%のヒット作」だが、単に「300位でした」では良い結果とは思えない。そこで関根はトップ20位までを[超]、100位までを[秀]、200位までを[優]、300位までを[良]などゾーン分けすることを提案。CM好感度の水準を分かりやすく示した。

データを理解いただいたお客様から次第に「次回作は[秀]以上を目指します」とか「年間を通じて[優]より落ちないことが我が宣伝部の目標です」など、目標設定や評価の基準に使っていただけるようになる。
関根の口癖だった「分けると解る」は、膨大なデータを理解いただく上で大切なポイントだった。その後、調査の種類や集計軸が増えてゾーン分けが複雑になる一方、CM好感度についてお客様の間で理解が進んだので現在では[超・秀・優・良..]の区分は使われていない。

出さない手紙に返事はこないーー知ってもらうことが大事

出版・広告のヒット企画を数々手がけてきた関根は、PR=どれだけ多くの消費者の目に触れるかを常に意識してきた。出版企画では常々「ものを作って終わりではない。そこからどうやって消費者に知ってもらい買ってもらうかまでが仕事だ」と説いていた。マスコミの取材には週末でも予定を曲げてでも対応し、キーワードになりそうなパンチラインを用意することも忘れなかった。時にはパンチが効きすぎて思わぬ余波が生まれ、スタッフが火消しに走ることがなかったわけではないが、露出には常に積極的だった。

そんな関根が「CM好感度」を業界に広めるために、年間ランキングを発表するイベントを企画する。1990年5月に「CM好感度ベスト作品認定式」をスタートさせ、毎年5月の開催が恒例となった。2年後の1992年には、CMのヒットが商品の売り上げに貢献した事例を選んで「消費者を動かしたCM展開」と「BRAND OF THE YEAR」の発表イベントを毎年12月に開催するようになる。
イベントは社員が総出で準備した。会場設営も、演出も、招待客の誘致も、当日のお客様のサポートも、自前の開催にこだわったのは、社員がプロデュース力とホスピタリティを身につける絶好の機会だったからだ。司会だけは、初期にテレビ番組の取材に来て親しくなった峰竜太氏に20年以上におよぶサポートをいただいている。

CM好感度調査の結果を、月刊誌CM INDEXに掲載し、業界関係者を招いた年2回のイベントで年間集計の結果を発表するのに加え、CM好感度を軸にした独自のテレビ番組を作り、消費者の目に触れるメディアを複数のチャンネルで持つことも関根のアイデアだった。番組CM INDEXは、CM好感度上位の解説と新CM情報を組み合わせた内容に始まり、今ではクリエイターインタビューや海外CM、WEB動画も含め幅広く広告を紹介する番組に成長し、すでに30年を超える長寿番組になっている。

こうしてCM好感度を強力に押し出していく一方で、関根は文芸評論家、作家、編集者など文壇との付き合いも広げていて、日本ペンクラブにも所属した。1992年から不定期に「東京春秋」という文芸同人誌の発行人となり、東京企画のPR誌としての機能も持たせた。毎号、著名な作家たちのエッセイとともに、東京企画/CM総合研究所の活動を紹介して取引先や顧客に配布した。会社の活動に、間口の広さと奥行きの深さを合わせて発展させることに熱心に取り組んだ。

「風のメディア」の解明を目指して

CM総研の事業は、世の中のデジタル化、IT化の波に合わせて発展した。最新の技術を取り入れてデータ精度を高めたりスピードアップするために、開発部門の会議は関根を中心に進められた。1995年頃、それまでビデオテープに保存してきた映像をコンピュータ上で再生できるデジタル化に取り組んでいた時、大容量のディスクをアメリカから輸入した。発注をかけてから随分と時間が経っても届かないので輸入業者に問い合わせると「アメリカではNASA(航空宇宙局)が業務に使うような装置を日本の名もない企業が輸入することが引っかかって手間取っている」という回答だった。この時に開発していたシステムを関根は「NASAに肩を並べる、いやそれ以上の仕事をしている」と通称「超NASA」と名付けた。この名前はいまでも社内で通用する。

自らも、仕事も遊びも全力投球だった関根は、平成が始まる前から「働き方改革」を考えていた。「週3日休んで給料を倍増できる」会社を目指して「三休倍増」をスローガンにした。実現には至らなかったが、社員にも全力投球で人生を目一杯に楽しむことを期待した。仕事外でも本気のチャレンジは応援し、援助もした。

2000年以降は、CMオンエアのログを自動的に記録するシステムを稼働させる一方、月2回の前期/後期調査をスタートし、さらにモニターのテレビ視聴の記録を集めてCMと性別世代別の接触度(CMミート率)の構築にも取り組んだ。さらには、CMのオンエア記録とコンビニのPOSデータを重ねて、CMによって消費者の行動がどのように変化するか探ろうともした。

企業から発信されるCMは、消費者にとっては偶然に遭遇して流れて消えてしまう「風のメディア」。そのメディアに消費者がどのように接触し、どのように感じて行動するのか、その全容を明らかにすること=「CMの領収書作り」をライフワークとして取り組んでいたが、2018年10月に道半ばで79歳の生涯を閉じることになった。
創業者・関根建男の遺伝子は次の世代に引き継がれ、より精度の高い情報の構築を目指してさらなる努力を続けている。