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創業者ストーリー

関根建男の "領収書"(Founder's Story)

goroku00  ▶全国の同級生諸君、おやすみなさい
 ▶"隣のクルマが小さく見えま〜す"
 ▶世界で最も通用する日本語はTOKYO
 ▶いろいろの情報を早く、するどく、おもしろく!


▶全国の同級生諸君、おやすみなさい


 株式会社東京企画/CM総合研究所の創業者・関根建男(セキネタツオ)は、1939年に群馬県群馬町(現在は高崎市)に生まれた。 父は代々農業を営む名家の出で、教員をするかたわら雅号を「青雲」と名乗る書家でもあった。 母は九州熊本の出身で、明治大正時代の評論・文芸で活躍した徳富蘇峰・蘆花兄弟を大伯父にもつ女性。 姉四人と兄一人を持つ末っ子で甘えて育った建男少年だが、10歳の時に最愛の母が他界してしまう。

 母亡き後、関根家には田畑の世話をする人がいなくなり、まだ小学生だった建男少年が面倒をみることになった。 田植えや稲刈りなど近隣のベテラン農家に手伝ってもらう農作業では大人に混じって働き作業後の酒宴も一緒に過ごした。 少年ながら人を束ねるプロデューサーのような役割をこなしながら建男少年は人づきあいを学んだ。

 高校は群馬の名門・高崎高等学校に学んだ。教室でおとなしく授業を聞くのは苦手だったが、教養を高めることには熱心だった。 ここ一番必要なときには深夜になっても「全国の同級生諸君、おやすみなさい」と声を出してから、もうひと頑張り、机に向かったものだった。 早稲田大学教育学部に進学したあとは学生寮に暮らし、この頃の友人たちのネットワークはその後の事業拡大に役立っていく。

 早稲田大学には7年在籍し中退するのだが、学生時代から雑誌記者のアシスタントとして記事を書くようになっていた。 大学中退が決まる頃、取材で出入りをしていた日産自動車から宣伝部のスタッフとして働かないかと声がかかった。 そろそろ腰を落ち着けて仕事に没頭したかった25歳の関根は、日産自動車への入社を決めた。


▶"隣のクルマが小さく見えま〜す"


 1965年、25歳の春に日産自動車に入社し宣伝部制作室に配属された。高度経済成長のまっただなか。 東名高速道路、中央自動車道の建設が急ピッチで進み、誰もが自家用車に憧れていたモータリゼーションの時代。 庶民にとってクルマはまだ高嶺の花だったが、1966年に日産はサラリーマンでも頑張れば手の届きそうな1000ccのコンパクトカーを発表し、その車名を一般公募する。 そのキャンペーンを関根は担当した。採用されたらその車がもらえるとあって応募総数は記録的な800万通に上った。 日本中が注目する中、このクルマは、太陽が降り注いで明るいイメージで親しみやすいということで「サニー」と名付けられた。

 サニーは好調に売れたが間もなくライバルのトヨタ・カローラが「プラス100ccの余裕」というキャッチコピーで新型カローラを発売する。 サニーとカローラは良きライバルとして庶民のマイカーブームを推し進めた。
 1970年、日産はさらに上をいく1200ccのサニーを発売する。関根が担当したその発売告知CMは、 小憎らしいガキ大将風の男の子が「となりのクルマが小さく見えま~す」と言いながら隣家の庭先に目をやるというものだった。

 このCM、日本初の「比較広告」と騒がれ、小学校の教室で、通勤電車の中で「となりの○○が小さく見えま~す」と真似をする子供やサラリーマンが大勢いた。 その流行に、子供に不必要なライバル心を植え付ける、虚栄心が良いことのように語られているとクレームが日産自動車に殺到し、関根は役員会に呼ばれて叱責を受ける。
 「でも『となりの○○が小さく見えま~す』は流行語になっている。ということは、CMは確実に大ヒットです」 そう説明しても、役員たちは「それは君の主観だろう、成功というなら証拠を見せろ」と言われてしまう。
 「だいたい宣伝部はお金を使うばかりで成果が見えない。領収書を持ってこい」と宣伝担当役員から言われ、その言葉は関根の人生に大きな影響を与える。 逆風のなかでCMの効果を客観的に公正に評価してくれるデータがあったなら、と関根建男はつくづく思った。


▶世界で最も通用する日本語はTOKYO


 35歳で日産自動車を退職した関根は、退職金を元手に世界を見て歩くことにした。 当時の五木寛之のベストセラー「青年は荒野をめざす」に倣って、横浜からロシアのナホトカへ船で渡りシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断してヨーロッパを旅して回った。 ユースホステルや安いアパートを借りて自炊しながらの旅。行く先々で世界の広さと文化の違いを肌で感じた。

 旅をしながら帰国後に始めるビジネスを固めていく。まず「世界を相手に仕事をする」ことを決め、会社名には「TOKYO」を使うことも旅の途中で決めた。 世界のどこに行っても必ず通用する日本語、それが「TOKYO」。日本(ニッポン)という国名は、ジャパン、ジャポネ、ハポンなどなど海外ではさまざまに変わってしまう。 「TOKYO」はどこにいってもトーキョーと呼ばれ、誰でも知っている。最もインターナショナルな日本語である「TOKYO」を会社名に使う。 主に広告や出版物の企画制作をすることも決めていたので、会社名は「株式会社東京企画」となった。

 1976年1月、株式会社東京企画は創業した。友人の会社に机ひとつ、電話1本を設置させてもらっての船出だった。 広告企画のコンサルティングやPR誌の編集など小規模な仕事から徐々に仕事の幅を広げ、スタッフを増やして銀座の片隅にオフィスを移転した東京企画は、 関根がヨーロッパ旅行中から温めてきた出版企画に着手する。当時の旅行ガイドは名所旧跡の解説など読み物として優れていたが、旅行者が持ち歩くには不便なものだった。 関根の企画は、ジーパンの尻ポケットに収まるB6版サイズ。地図を多用して全ページカラー刷り。従来のガイドブックの「国」別ではなく 「都市」別に構成され「海外シティガイド」の名称で企画された(昭文社発行)。


▶いろいろの情報を早く、するどく、おもしろく!


 それまでになかった新しい視点で広告や出版を企画することは、関根の最も得意とするところで、その後も次々にヒット企画が続いた。 当時の東京企画の名刺には「いろいろの情報を早く、するどく、おもしろく!」というスローガンが踊っていた。

 なかでも1981年のビッグプロジェクト『日本の名旅館』は注目を集めた。 JTB出版局から発行され、その後も長く続くことになる「MOOK一流シリーズ」の第一弾。老舗旅館でゆっくりくつろぐ、 という本格志向の旅を求めている層が確実に増えていると感じた関根の企画で『日本の名旅館』は編集された。 1冊2000円もするMOOK誌だったが3年ほどの間に通算100万部のベストセラーとなった。 このシリーズでは宮内庁に通って当時の入江相政侍従長の知己を得て出版にこぎつけた『皇室御用達』など、それまで出版されたことのない企画を次々実現させた。

 広告企画ではTOTOの仕事に注力した。設備メーカーのTOTOが増改築ブームに打ち出した「ウオッシュレット」「シャンプードレッサー」など 新機軸の商品の広告を中畑貴志氏とともにプロデュースして、「お尻だって洗ってほしい」などの広告をヒットさせた。
 TOTOの仕事では、当時の山田勝次社長の海外視察旅行に何度も同行した。ヨーロッパ視察旅行のある夜、関根は山田社長に、暖めてきた新ビジネスについて相談する。 CM総合研究所構想だ。ようやくビデオ機器やPCが普及し始めたので、日産時代からの宿題「CMの領収書」に向き合うときが来たと感じていたのだ。 最初の構想は、ヒットしているCMだけを集めてデータベース化することだった。 ところが山田社長から「関根君、やるんなら全部やらなきゃだめだよ」と忠告を受ける。当時の会社の状況やテクノロジーの現状を考えれば「おいしいところだけ集めて」 という発想は当然だったが、さすがに成長を続ける大企業トップの視点は的確だった。この忠告がなければ、今のCM総合研究所は存在しなかったかもしれない。 関根はすべてのCMを網羅するデータバンクを立ち上げる覚悟を異国の空の下で固めた。



※創業者ストーリー後半は、追って掲載予定です。

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